エリック・クラプトン その弐

さて、今回も前回に引き続きエリックです。このミュージックコラム始まって以来の2回連載となりました。まあ〜息の長いミュージシャン(芸歴なんと40年)で、色々ある人なのでまともに語っていたら3回、4回、とどこまで続くやら・・・・・。では、無駄話はこの辺にして、前回は確か「ブラインド・フェイス」と「デレク&ザ・ドミノス」辺りで終わっていたので、今回はこの辺から出発です。

エリックは「クリーム」の解散から暫くして、元「トラフィック」の“スティーブ・ウィンウッド”(当時はスティービー) とクリーム時代のドラマー、ジンジャー・ベイカーそしてベースのリック・グレッチの4人で「ブラインド・フェイス(Blind Faith=“盲目的信念”というこのバンド名もスゴイ!)」を結成します。

このメンバーの“スティーブ・ウィンウッド”は16才で「スペンサー・デイビスグループ」でデビュー。ヴォーカリストでマルチミュージシャン、当時は天才少年と言われていた逸材で、天才ギタリストと言われていたエリックとは周知の仲だったようです。


terada-saurus
<生態>
●俗名:テラダザウルス(爬虫類ではありません。いちおう霊長類の仲間です。)
●別名:ミスター パラドックス
●生息地:夜の盛り場、主に歌舞伎町あたり。

そんな2人が結成したグループとあって前評判も高く、1969年6月、ロンドンのハイドパークでのフリーコンサートでいきなりお披露目、ファーストアルバムを発表(このハイドパークは、当時の英ロックバンドの野外コンサートでよく使用され、「ブラインド・フェイス」の前には「ローリング・ストーンズ」がその年に他界したメンバー、ブライアン・ジョーンズのメモリアルコンサートを開催、この時、新メンバーのリードギタリスト”ミック・テイラー”が紹介される。ストーンズはバンドの新たな跳躍の為、強力なギタリストを求めていた、この為、当初エリックを勧誘していたが「ブラインド・フェイス」構想の為、あっさりとフラレル、その代りにエリックと同じ“JOHN MAYALL BLUES BREAKERS”に在籍し、当時エリックのフォロワーと言われていた”ミック・テイラー”に白羽の矢を立てた。もし「ブラインド・フェイス」の話がなければストーンズのエリックが誕生していたかもしれない)。

  ●習性:もちろん夜行性。チェック柄の擬態で人の目を惑わす。
●性格:良く言えば凝り性、実態はかなりの粘着質。パラノイア()とも・・・・・。
●血液型:・・・謎。
●年齢:不明、気は若い。
●特技:毒舌(始まったら止らない独断場)。
●苦手なもの:ゴマすり、お世辞。(するのも、されるのも)
●飼育上の注意:できるなら近寄らない方が無難。ハマる覚悟が必要。

 
「ブラインド・フェイス」は、その後1年たらずで自然消滅します。メンバー間の音楽性の相違が原因と言われていますが、それにもましてバンドの音楽性とファンの期待しているそれにギャップがあったため評価が別れ、中途半端に終わってしまった。何にしても、実力者揃い故のリーダーレスバンドの当然の結末ではありました。
この後、エリックは後にセッションミュージシャン (エリックは「クリーム」の頃からセッションマンとしても数多くのバンドやシンガー達のレコーディングに参加、頼まれると嫌と言えないのか、仕事に対して意欲旺盛なのか? とにかく多様な人である、今でもその姿勢は変わっていないようだ。セッションの代表的なのが「ビートルズ」、「ローリング・ストーンズ」、「レオン・ラッセル」、「アレサ・フランクリン」、「デラニー&ボニー」、「ジョン・レノン プラスティックオノバンド」等々、挙げればきりがない) として参加するアメリカのデュオ、「デラニー&ボニー」のステージを見て、そのソウルフルでのびやかなアメリカ南部のロックに引かれ、次に発表するファーストソロ (ERICK CLAPTON,1970) では、先の「デラニー&ボニー」や「レオン・ラッセル」等、ブラスセクションを含めた総勢数十名のバックミュージシャンを起用してアルバムを発表します。初めて全面的にリードヴォーカルをとるのですが、この当時のエリックのヴォーカルスタイルは現在のような迫力ある渋みの利いたスタイルではなく、どことなく頼りなげでうまいとはいえない、元々エリックはヴォーカルに関しては「クリーム」の頃から問題外でありました(多分、このアメリカ南部ロックのソウルフルなヴォーカルスタイルもエリックの憧れだったのか、その後パワーアップしていく)

何はともあれ、このアルバムでその後の彼の音楽方向が固まったようです。それは「オールマン・ブラザース バンド」や「レナード・スキナード」に代表される、“レイドバック”といわれるブルースを基調とした、ゆったりと流れる様なアメリカ南部のロックスタイル、”サザンロック”です。エリックはファーストソロの余韻を駆って、このバックバンドのメンバー数人と「デレク&ザ・ドミノス(DERK & THE DOMINOS)」を結成し、ゲストミュージシャンに「オールマン・ブラザース・バンド」のリーダーで、今は亡き”デュエイン・オールマン”を迎え、白熱のツインリードギター合戦を展開するサザンロックの名盤「レイラ(LAYLA and Other Assorted Love Songs,1970)」を発表します。この“レイラ”というのは、エリックの朋友ジョージ・ハリスンの当時の奥さんであった“パティ・ボイドのことで、彼女に捧げたアルバムでありました。エリックはこの“パティ”にメロメロ(つまり不倫)だったようです。
一人の女性への愛を切々と歌ったこのアルバムは(シングル曲「レイラ」を含め)、英・米でヒット! しかし、人妻とはいえ、愛故にアルバムを一セット創ってしまうこの情熱的なパワーはスゴイ(それにしても、ジョージはこのことを許していたという、妻への愛より男の友情を選んだということか? 泣ける〜)。
「デレク&ザ・ドミノス」も次のフィルモアでのライブアルバムを最後に1971年に解散します。
エリックは、その後暫く音楽活動を休止するのですが、その理由は、この時エリックはドラッグ中毒に陥り、アルコール中毒も含めてかなり重症だったらしく、心身共にボロボロだったようです(分かるような気もする、ちなみにこの当時、彼の笑顔で写っている写真はほとんど無い)。
1973年1月、エリックをドラッグから立ち直らせる為、「ザ・フー」のピート・タウンゼント等の図らいで、ロンドンで“レインボーコンサート”を開催します(この時の模様は同年、同じタイトルでライブアルバムとして発表)。

この甲斐あってか、エリックは1974年に完全復帰します。その年に4年ぶりのセカンドソロアルバム「461オーシャン・ブールヴァード(461 Ocean Boulevard,1974 )」を発表、ボブ・マーリィのカバー「アイ・ショット・ザ・シェリフ」を久々にヒットさせています。驚いたのは、当時まだ日本では一部の音楽ファン以外あまり認知されていない“レゲエ ミュージック”を取り上げ(私もこの曲の原曲がレゲエとは知りませんでした)、エリックなりのレイドバックスタイルに消化して演っていることでした。エリックは変わったなと確実に感じた瞬間でした。これから、80年代の半ばまで、約1年に一枚の割りでレイドバック路線のアルバムを発表していくのですが、1985年になってエリックは次の転機を向えます。それまでのレイドバック路線からフィル・コリンズをプロデューサーに起用するなど、よりPOPなコマーシャル路線に傾いてきます。

1986年には初めての映画音楽を手がけることになり(ポール・ニューマン、トム・クルーズ出演の“ハスラー2”の主題曲“ザ・ギフト”)、そして、1991年にはまだ5才の息子“コナー”を失い、失意のエリックは映画”ラッシュ”のサントラを依頼された際に、この時の感慨を胸に「ティアーズ・イン・ヘブン(Tears in Heaven)」を書き上げます。この曲を含むアルバム「アンプラグド〜アコースティック・クラプトン、1992」は主要6部門でグラミー賞を獲得。以後、エリックは順調に活躍しているようです。
この頃は還暦も近いせいか(あまり関係ないかも) 彼のルーツミュージックである、ブルースへの回帰が顕著で、ブルース名曲集ともいえるアルバム「フロム・ザ・クレイドル、1994」やあの”B.Bキング”と競演のアルバムを出したり、ブルースの祖といわれる“ロバート・ジョンソン”の全篇カバーアルバムを出すなどしています。
思えばこれまでのエリックの生き様自体が“ブルース”そのものといってもいいのかも知れません。
エリック・クラプトンの巻  終

 
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