復活の序章? その2 久々のエッセイです。前回からまた少し時間が経ちましたが(前回は1月)、私は相も変わらず本業に勤しんでおり、このエッセイにもなかなか手が廻らず皆様にはご無沙汰をしておりました。さて、このエッセイと同じように諸所の事情により長らくご無沙汰しておりました系列店「MAD HOUSE」ですが、おかげさまで5月1日より営業を再開しております。ホンキー同様に私のこだわりが詰まった店であるが故に、一刻も早く再開をと思っておりましたが、この時期になってしまいました。日頃ご贔屓の皆様には大変御迷惑をおかけしました。今後ともホンキー共々ご愛顧のほどをよろしくお願いいたします。 ところで、話がコロッと唐突に変わりますが(これも性格ですかな?笑)・・・・・、その昔、アンドレ・モーロワ(1885〜1967)というフランス人作家がおりました。彼は『フランス敗れたり』という本を著述しています。この本はフランスがたった45日間という短期間でドイツに敗北する事になるまでのプロセスについて、その実相を描いています。彼は第一次大戦時、英・米軍との連絡将校を務めた人物でしたが、その時の縁で英・米の政治家や将軍達に多くの友人がいたのです。その中の1人にあのウィンストン・チャーチルがいました。チャーチルは彼にフランスの軍備強化の緊急な必要性を説いています。それはドイツが西方作戦を電撃奇襲的に開始する5年前のことでした。 チャーチルはモーロワに対し「かつて世界第1位であったフランス空軍を追い越し、今やドイツ空軍が世界第1位になろうとしている。君はパリに帰ったら、女の愛や男の野心だのという小説や伝記を書く事を止め、空軍の増強を新聞、雑誌で訴え給え」と、彼に強く、そして鋭い口調で熱心に繰り返し語ったそうです。更にチャーチルは「君の祖国フランスは、ドイツ空軍により滅亡するかも知れない。文化や文学も大切だが、強い軍事力を伴わない文化は、明日にでも滅びる文化となる危険にさらされている。今や、フランスやイギリスにとって重要な事はその文化を守る強力な武器を持つことだ」と、熱心に何度も語ったそうです。 まあ〜、以上のような趣旨の事をモーロワは先の著作『フランス敗れたり』の中で、反省を込めて書いています。しかし、その当時のフランスやイギリスの世相は、このチャーチルの主張を受け入れる状況にはなかったのです。第一次大戦後の平和と安逸に慣れてしまった政治家や国民は、軍備の増強はドイツを刺激し、軍備の拡張競争をもたらす事になるとして、これを危険視したのです。 当時の英・仏国民は、たとえ国の自尊心や誇りを多少捨てても、例の“ミュンヘン協定”ではないのですが、宥和政策による平和の維持を望み、経済の負担が重くなる軍備強化には反対していました。とは言うものの、ヒトラーのポーランド侵攻によってイギリス国民は、このチャーチルの従来からの主張を認め、首相兼国防相として対ドイツ戦に関する全権限をチャーチルに与え、英国民一丸となってヒトラーのナチスドイツと戦う事になったのです。つまり、イギリスはフランスと違い国家の危機にかろうじて間に合った事になります。ちなみにウィンストン・チャーチルという人は戦時内閣を組閣するにあたり、陸・海・空 3相の上に国防相を置き、首相と兼任して3軍の各幕僚長を直接指揮するという独裁体制を構築します。そして、各作戦にも執拗に介入を繰り返し、何人もの司令官の首を挿げ替えたりしています。元軍人であり従軍記者の経験もあるチャーチルは、戦場の空気を皮膚感覚で知っていた根っからの戦争屋でもありました。 ウィンストン・チャーチルは、21世紀(2002年)に入ってイギリスのBBC放送(イギリス国営放送)がアンケート調査を実施した「偉大な英国人」投票で第1位に選出されています。やはり、イギリス人にとって彼は「救国の英雄」なのですネ。 さて、イギリスのチャーチルの次は、一方の雄であるフランスのシャルル・ド・ゴールについても述べなくてはなりません。1940年5月、ドイツ軍がフランスへの奇襲電撃戦を開始した時、ド・ゴールはフランス第5軍の戦車旅団長でした。その任務はフランス東部国境アルザス地方の防衛でしたが、この独・仏国境には長い年月と莫大な国費を投入して築いた「マジノ要塞線」が構築され、フランスの対ドイツ防衛戦略の根幹を成していたのですがド・ゴールは青年将校時代から、この「マジノ要塞線」に依存する「専守防衛戦略」に反対していました。ド・ゴールは1932年に『剣の刃』という本を著し、その中で「戦争が近づいている」事を警告し、「剣は何のために」と問いかける事により、平和の中で安逸に流れがちな軍の風潮に反省を促がして「軍隊は飾り物であってはならない。刃無き剣であってはならない。今こそ剣を研(みが)き鋭い刃を付ける時である」と強く主張したのです。あのヒトラーがナチ党内閣をつくり、政権を取ったのはこの翌年であり、次の年には大統領と首相を兼ねた“総統”に就任して、独裁的権力を握る事になるのですが・・・・・・。 同年(1934)、ド・ゴールは『職業軍を目指して』を上梓して、「マジノ要塞線」に過度に依存し過ぎる受動的かつ防衛的な陣地線主義による専守防衛戦略の危うさを鋭く指摘しており、戦車と航空機を中心とする攻勢的な空・地一体の機動戦略を強く主張しました。彼は「国防というものは、単に国土内のみの作戦に限定してはならない。如何に国防とはいえ、自ら敵を攻撃する能力、それも国境外に出て作戦する能力がなくては敵の侵略を抑止出来ない」と明快に語り、「マジノ要塞線」を鋭く批判しています。 しかし、このド・ゴールの戦略思想はフランス軍の中では異端視扱いされ、軍の上層部からは白眼視されたそうです。しかもそれだけでは無く、危険視さえもされた為に彼自身の進級や昇進にも悪影響を及ぼしました(ド・ゴールは大尉から少佐に進級するのに11年かかり、少佐から中佐になるのに7年、中佐から大佐に4年かかったそうです)。 そのド・ゴールの戦略思想を取り入れ、ドイツ軍は戦車と航空機を結合し、意表をついて「マジノ要塞線」の西側にあり、ベルギー国境に広がるアルデンヌ森林地帯を突破してフランスへの侵攻を開始します。 この独・仏開戦の翌日、ド・ゴールはパリの総司令部に呼び出され、第4機甲師団長に任命されました。ド・ゴールはこの時に大佐から少将に抜擢され、特別昇任というかたちでやっと将官になる事が出来たのです。すなわち、ド・ゴール将軍の誕生です。そして、即日フランス北東方面軍総司令部に出頭したド・ゴールに対し、フランス北東方面軍総司令官のジョルジュ将軍は次のように言ったそうです。「君は敵が今実行している戦術と同じ考えを長い間主張してきたが、これを実際に使う機会がとうとうやって来たよ」・・・・・と。 英・仏連合軍の敗退が続く戦況の中、ド・ゴール少将率いる機甲師団は勇戦敢闘します。彼は地形や気象を巧妙に利用し、ドイツ軍の一部を窮地に陥れ、3週間の短期ではあったものの大善戦したのです。 ド・ゴールの戦術思想の影響を受け、それを逆用して電撃戦を敢行したドイツ軍のグデーリアン将軍は、彼の回想録である『一兵士の想い出』の中で、ド・ゴール率いる機甲部隊の見事な戦いぶりを褒めています。しかしながら、歴史が示すようにド・ゴールの奮戦は局地的なものであり、もはや全体の戦勢を挽回する事は出来ませんでした。つまり、フランスの場合はイギリスと違って、政治家や軍人が国家的危機に気づき、目が覚めた時には既に遅かったのです。 さて、このド・ゴール将軍は第二次大戦後フランス大統領に就任します。そして、サンシール士官学校※1 の入校式の訓示の中で、それに聞き入る多くの若き士官候補生達に次のように述べたそうです。「軍人は戦争の時代には過度に尊重され、平和な時代には過度に軽視される。そして時代変動の激しい職業でもある。それだけに士官たるべき者は永い平和に耐え、戦争に備え続ける勇気が必要だ。古き将軍達曰く、<平和の時代に重き甲冑を着ける身の何たる苦渋ぞ。されど、いつの日か、我らが草摺り(バスク)にすがりつき、我が祖国を救えと懇願する日が必ず来るであろう>と」・・・・・。 要するにド・ゴールは、平時に於ける政治家や国民の軍事(人)軽視の社会的風潮がフランスの敗北の原因であった事を警告を込めて言及したのです。これは何故か、先の大戦後から現在に至る、日本の社会的風潮とよく似ていると思うのは私だけでしょうか? これは余談になりますが、その当時のフランス(第二次対戦以前)にド・ゴールの著した本を読み、彼の主張に耳を傾けていた1人の政治家がいました。開戦時のフランスの首相ポール・レイノーです。 ドイツ機甲部隊のフランス侵攻以来、多くの政治家や将軍達が敗北主義に陥る中、抗戦続行を企画するレイノー首相は敗戦に向かっている最中、ド・ゴールの意思の強さに期待し、国防次官に抜擢します。この後、ド・ゴールはイギリスに亡命する際に、「フランスを脱出し、抗戦を続ける決意」をレイノー首相と駐フランス英国大使に伝え、翌日には飛行機でイギリスへ飛び立ち「レジスタンス(対ドイツ抵抗組織)」の拡大を図り、フランス自由解放闘争を続ける事になります。この時ド・ゴールは既に49歳になっていました。 「ド・ゴールは小さな飛行機でフランスの大きな栄光をイギリスに持ち込んで来た」と、あのチャーチルは後年この様に回想しています。 また、この当時、レイノー首相の側近には国際派のフランス人であり、欧州統合論者であるジャン・モネ※2がいました。現在のEU(欧州連合:European Union)のルーツはこの頃から芽生えていたのかも知れません。2度の世界大戦による経験と反省が、今の「EU」の理念的礎になったのは間違いないところですネ。これはチョットしたエピソードといったところでしょうか・・・・。 はてさて、以上の如くチャーチルとド・ゴールについて長々書き著してきましたが、これには理由があります。先にも少し触れましたが、敗戦から現在に至る日本人の軍事軽視の風潮や世相、それに伴う政治家達の怠慢や問題の先送り、マスメディアのノーテンキぶりを考えると第一次大戦後にイギリスとフランスが辿った道と非常に似ており、一市井の日本人として、昨今の北朝鮮を含み中国が主役である北東アジアの軍事バランスの急激な変化を鑑みると、特に中国の存在とその秘めたる国家意思(何を目的に異常な軍備強化を図るのか?)は大いに気になるところです。一般の日本国民はどう考えているのでしょうか? 第二次大戦後の“日本経済の成功”と冷戦時におけるソ連の“異常な軍備の強化”という二つの要素を中国という一つの国が同時に目指し、2020年頃には、それらを正に同時に達成しようとしているのです。これは第二次大戦後では、全く初めての事例といえます。過去、他にこの様な国は存在しませんでした(断定)。そして、この「中国の軍事力」は、この国の国防の為に必要な軍事力を、既に十分過ぎる程上回るものを保有しており、しかもその内容は不透明であり、軍備増強の目的も明確にしておらず、日本の安全保障にとって脅威と言わざるをえません。 ところで、アメリカは中国の国家意思とその目的をどの様に考えているのでしょう? 今、アメリカ大統領予備選の模様が日本のマスメディアから盛んに報道されています。しかしながら、アメリカの政権が共和党になろうが民主党になろうが、この国の対中国政策はあまり変わらないでしょう。何故ならば、どちらの党もアメリカに対抗し拮抗する覇権国家を目指すという中国の意思や目的を既に察知し警戒感を募らせていると思われるからです。アメリカは対テロ戦争を全力で遂行しつつ、やがて政治力、経済力、軍事力、科学技術力でアメリカに追いつき追い越そうとし、近未来のライバルになるであろう中国を既に相当意識しているはずです。更に、アメリカという国は海洋国家です。そもそもアメリカが海洋国家である事を意識し目覚めるにあたっては、アルフレッド・マハン提督※3の『海上権力史論』を、その理論的かつ戦略的な支柱にしてきました。したがってその後、アメリカは大西洋は勿論の事、東アジアや太平洋海域における海上権益にも重大な関心を持ち続けてきました。日本にとっても自国の死命を制するシーレーンがこの海域に存在しています。価値観と国益を共有する日・米が協調し共同して、迫り来る「今そこにある危機」に対処し始めなければ間に合わなくなるでしょう。それにしても、今の日本の政治の貧困さはひどすぎます。この国のアホな代議士センセイ達(利権屋の表現が適当か!)は日本の国家的危機にも係わらず、日頃いったい何を考えているのでしょうかネ? 翻って見ると、どちらにしろ日本がこのままで良いはずがありません。2020年、その時日本はどうなっているのでしょうか?一日本人として非常に心配ではあります・・・・。かつて、かの鉄血宰相ビスマルク※4が言った「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉が想い起こされます。日本はいったいどちらに学ぶのでしょうか?近代日本のたった一つの“敗戦”という経験(というよりも“羹に懲りて膾を吹く※5”の例えが正解カモ!)に学ぶのか?それとも、第一次大戦以後の英・仏の辿ったプロセスを参考にし、近代史に学ぶのか?それにしても(疑問符ばかりが多くなってしまいましたが)日本という国は「正にこれからの10〜15年が正念場」となるのは間違いないでしょう。もう、日本にはあまり時間がありませんが・・・・・・。 あ と が き 私と同じように、現状の日本について憂国の情をお持ちの方々が少なからずおられると思います。その様な方々に、少しでもこの文章が届き、ご講読いただければ幸いです。尚、合わせまして本ホームページ上の「メッセージ(業界天声珍後:トマスおじさんのやぶにらみ放談)」もご熟読いただければ一層の幸いです。
<参 考> ※1.<サンシール士官学校> 1802年開校のフランス陸軍の士官学校。シャルル・ド・ゴールをはじめ、多くのフランスの名将を輩出している。士官学校とは職業軍人である士官を養成するために軍隊に設置される学校のことである。世界先進国の同様の学校としてはアメリカの「合衆国陸軍士官学校(通称ウェストポイント)」やイギリスの「サンドハースト王立陸軍士官学校」等がある。ちなみに日本では自衛隊制度になってから、防衛大学がその役割を担っている。 ※2.<ジャン・モネ> ジャン・オメール・マリ・ガブリエル・モネ(Jean Omer Marie Gabriel Monnet、1888〜1979)はフランスの実業家で政治家。彼は政治家として活動する以前は、フランス経済界において影響力を持っていた。国際的にも活躍し、イギリスやアメリカに滞在していた時期もあった。また、欧州統合の推進者として知られている。その功績として、西ヨーロッパの重工業分野での統合計画を実施したことが挙げられる。 ※3.<アルフレッド・マハン提督> アルフレッド・セイヤー・マハン(Alfred Thayer Mahan、1840〜1914)はアメリカ海軍軍人で最終階級は少将。彼は海洋戦略論の古典的理論家でその著書は世界各国で翻訳されている。大鑑巨砲主義を助長したとして批判の矢面に立たされることもあるが、アメリカでは彼に因んで幾つかの艦船がマハンと命名されている(USS Mahan)。その代表著作の『海上権力史論(上・下)』は近代デジタルライブラリーで閲覧可能(全国書誌番号40015155)である。 ※4.<鉄血宰相ビスマルク(オットー・フォン・ビスマルク)> オットー・エドゥアルト・レオポルド・フォン・ビスマルク=シェ−ンハウゼン(Otto Eduard Leopold von Bismarck-Schonhausen、1815〜1898)は、プロイセン王国の宰相(在任1862〜1890)で1871年からはドイツ帝国初代宰相を兼務する。彼はプロイセン王ヴィルへルム1世の右腕として鉄血政策を打ち出し、対デンマーク戦争、対フランス戦争を指導し、これらに勝利。1871年にヴィルへルム1世をドイツ皇帝として戴冠させ、ドイツ統一の主役となる。君主主義の保守的政治家で1880年代に台頭してきた社会主義に対し、厳しい姿勢を取ったが、一方で老齢年金、健康保険、労災保険等の各種社会保障制度を整えたことでも知られている。優れた外交官であり、政治家として現実主義の政治手腕には卓越したものがあった。 ※5.<羹に懲りて膾を吹く(あつものにこりてなますをふく):故事成語> 失敗に懲りて、必要以上に用心深くなり、無意味な心配をする事の例え。羹(熱い汁物)を食べたら、ものすごく熱く懲りたので、冷たい膾(牛肉の刺身)を食べる時にまで息を吹きかけ食べようとする様を表現している。英語ではA scalded dog fears cold water.やA burnt child dreads the fire.というのがある。参考まで。 |
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