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いかにして、" honky tonk ladies " は生まれたか・・・・・(その2) こんにちは。フレーバーハウスの寺田です。 GWのお祭り騒ぎも梅雨の前触れの雨に流されて、いつもの街に戻った歌舞伎町です。 さて、前回はHonky誕生の「種」になった、私と音楽や映画との出会いについての「三つ子の魂 百まで」的なお話でした。今回はもう少し年を経た、60年代後半頃の少々キナ臭い時代のことをひとくさり・・・。 1963年1月、人種差別撤廃と世界平和を訴えたケネディ大統領が、暗殺される10ケ月前に下した決断は、皮肉にもベトナムへの本格的な武力介入でした。そして65年の北爆開始とともに、アメリカがベトナム戦争の泥沼に突入していった時代。世界中でLOVE&PEACEムーブメントが巻き起こる前兆を、若者たちがヒリヒリと感じていた頃です。 その頃に東京で学生時代を過ごした人間の大半が経験したことかもしれませんが、学生運動で学校をロックアウトされた後は、JAZZやブルースのかかる喫茶店にしけこむか、3本立ての映画で暇をつぶすのが日常でした。もとより洋楽・洋画に傾倒していた私にとっては、それらの中に身を置くことが、唯一の救いであり自分を取り戻せる時間であったわけです。そんな時に観た1本の映画が、いまのHonkyの原点になっているのかもしれません。 その映画は、67年に制作されたシドニー・ポワチエ主演の「夜の大捜査線」。「イン・ザ・ヒ〜ト・オブ・ザ・ナイト!」と歌うレイチャールズの声(シブイ)で幕が開き、さぁ!ポリスの大活劇かと思いきや、さにあらず。実は殺人事件と人種差別が交錯する社会派ドラマでした。 さて、なぜこの映画がそこまで深く、私の印象に残ったのか? その理由は、それまで映画は娯楽だと思っていた私に、作品の中から問題提起とメッセージを投げかけてきた初めての映画だったからです。(これがアメリカン・ニュー・シネマの先駆けだったのだと気付いたのは、ずいぶん後になってのことでしたが。) この映画の時代背景には、当時のアメリカ国内で展開されていた、マーチン・ルーサー・キング牧師の公民権運動があります。1963年の有名な“I have a dream”と呼びかけた演説から始まり、1964年には公民権法が成立。、「同年、彼は人種差別問題の解決に向けた貢献が称えられ、ノーベル平和賞を受賞しています。」しかしそのわずか4年後の1968年、彼は暗殺されてしまうのです。1963年11月のJFK暗殺、そしてこのキング牧師暗殺は、アメリカの自由と保守との対立の歴史上で特筆大書される出来事だと思います。 その最中に制作された「夜の大捜査線」に込められたメッセージは、黒人と白人が最後に認め合うというラストに凝縮されています。対立しながらも協力して事件を解決した二人、敏腕刑事役のシドニー・ポワチエ(黒人)に向かって、南部の田舎町の警察署長役ロッド・スタイガー(白人)が、微かな笑みを湛えた「友人のまなざし」で彼を見送るシーンです。 シドニー・ポワチエの抑制の効いた演技と全編に流れるクインシー・ジョーンズのサウンドトラックを武器とし、アメリカの暗部である人種差別問題に、「対等な人間同士」というメッセージを提示したノーマン・ジェイソン監督の手腕に、私の映画観は見事に変えられてしまったのです。その後さらに私の映画熱が過熱してしまったのは言うまでもありませんよね。 この映画に出会った頃の私といえば、活動家でもなくノンポリでもなく、ただイライラしていました。学生デモに物見遊山でついて行ったつもりが、放水と催涙ガスを浴びるうちに、知らぬ間に火炎ビンを掴んでいて、ハッと我に返ったことがあります。時代の空気がそうさせたと言えば、言い訳でしょうか? でもその時感じたことは、人の気持ちを突き動かすものは、音と映像と明確なメッセージが作る、人を包む空気なんだということ。まさに映画と同じだったわけです。 それからさらに10数年後、私はHonkyを立ち上げることになるのですが、自分で自分の、そしてHonkyのルーツを考えめぐらせる時に、決まって思い浮かぶのが、「夜の大捜査線」のあのラストシーンと、重ねて流れる“In the heat of the night”のフレーズ なのです。 |
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2004/05/16
株式会社フレーバーハウス てらだ ひでお |
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