いかにして、" honky tonk ladies " は生まれたか・・・・・(その3)

こんにちは。フレーバーハウスの寺田です。
梅雨入りしてうっとうしい毎日です。こんな時はhonkyでノリノリ発散するのが一番(なんてね)

さて、誕生秘話()シリーズも3回目。このへんでひとつ締めくくっておかないと、延々と私のウン十年の歴史を書き連ねていきそうなので、この話の最後は、私がhonkyを創ろうとしたころの話を・・・・・と、この原稿を書き始めた矢先の6月11日(日本時間)。TVのニュースでレイ・チャールズが亡くなったという訃報が

前回のエッセイで「夜の大捜査線」のテーマソングが今でも耳に残っている・・・と書いたばかりだったので、驚くと同時に、ある種の感慨というか、20世紀が徐々に遠のいていくのだなと実感しました。1930年生まれで享年73歳。私がはじめて出会ってからもう40年あまり、私の中ではR&Bのトップスターでありつづけました。最近の若い世代には、サザンオールスターズの「いとしのエリー」のカバーが有名ですが、私にとってはアンチェイン・マイ・ハート、ホワッド・アイ・セイ、我が心のジョージア、そしてイン・ザ・ヒート・オブ・ザ・ナイトが、ピアノをかき鳴らし、時にはハープを口に当て、トレードマークのサングラスを押さえる仕草の彼が、“レイ・チャールズ”、その人でした。合掌するべきか、彼に倣ってエイメンと祈るべきか・・・・・。彼については時期を改めて、またエッセイに書きたいと思います。(やっぱり・・・エイメン。・・・・・・) さて、気を取り直して本稿のスタートです。

Honkyという店、このサイトでも「私の宝箱状態」(笑)の空間なのだと書きましたが、もう少し言い足すと、私のこれまでの歴史そのものなのだと自分で思っています。私が20数年前、おぼろげながら自分でビジネスを始めようと思ったとき、当然のことながら十分なノウハウや自信があったわけではありません。でも人のマネをしていては結局ヒトや時代に流されていくだけだということは、それまでの経験(これでも昔はカイシャインだった)から身に染みて感じていました。前回のエッセイでも書きましたが、「人の気持ちを突き動かすものは、音と映像と明確なメッセージが作る、人を包む空気なんだ。」という気持ちがあっただけです。

当時(70年代の終わりから80年代の初め)といえば、まだ日本はバブル前夜。75年のベトナム戦争終結からアメリカも活気づくなか、音楽シーンでもファンクやブラコンがはやり始め、ディスコブームが最高潮。カルチャーでは平凡パンチが消えて78年にポパイが創刊。サーフィンやアイビー・トラッドファッションに若い世代が夢中になり、50〜60年代のよき時代のアメリカをトレースするかのような、ちょっと小休止・・・というか、進むべきベクトルを無くしてしまった時代だったかもしれません。夜の接客業界でも、キャバレーに変わり、ミニクラブ(後のキャバクラ)ができ始めていたころでした。

そんななかで私が店づくりをあれやこれや悩んだ末に出した結論は、「ブームは気分、いつか終わる。でも、自分が好きな音楽や映画は、きっと変わらない。だったら自分を注ぎ込めるものに賭けよう。」という、いたってシンプルなもの。元来、オタクとは言わないまでも、音楽や映画には多少偏執的()にこだわっていたのは事実だったので、やるならトコトンとばかりに、一挙にエンジンが掛かってしまったわけです。

単に「演出」という個性化ではなく、自分にしか出来ない「特化」したもの。そして、自分自身が楽しめる店であるかどうか。周りからはヤリすぎ、キワモノと揶揄されたこともありましたが、この20年、この思い込みと信念(笑)だけでやってきました。

さて今のhonkyでは・・・・・、私は相変わらず、多くのお客さまに楽しんでいただけるよう、いまだに必死に「信念のヒト」となっているのでした(笑)。 でもプロフェッショナルを目指す時、誰もがこんな風になってしまうのでは ただただ、こんな私を支えていただけるお客さま、そしてスタッフの皆なに感謝するばかりです。これからもよろしくお願いします!!(たまには謙虚に・・・)

 
2004/06/16
株式会社フレーバーハウス
てらだ ひでお
 
Back Number ⇒ |04.5.1604.4.23